皆さま
こんばんわ。Sanyです。
この度、綾辻行人の「黒猫館の殺人」を家の書棚で見かけ、
ふと開き始めるとなかなか止まらない。3日で読み終えてしまった。
ネタバレが嫌いな性分なので、内容には触れずにこの読書を通して、
新たに気が付いたことについて、書いてみたい。
退屈な毎日
なにぶん最近は、疲れていたのだと思う。
仕事も受身の内容が増え、精神的な疲れと充実感のなさを積み重ね、家に帰っても充実感を感じたい焦りと、ただただ時間を消費する罪悪感に挟まれながらも、何も変わらない毎日に嫌気が差さないくらい、無気力だけを相手にする毎日を送っていた。
そんな中で、何も考えずに目で文字を追っていると、「読書」の何もかもを気にせず没頭できる時間に薄々気がつき始めた。
本を読む時間
これまでは、ゲームやYoutubeなどが「現世のあれこれ」を忘れて没頭できる時間だったのだが、今一度好きなだけやっていいと言われると、「いくらコンテンツの数は多いとはいえ、単調な筋書きに飽きてしまった」と手の平を返すくらいには、私は天邪鬼だということがよく理解できた。
その点、本はこれまで何世紀も歴史を重ねてきた背景があり、現代においてもその上にあらたな文化を築こうと切磋琢磨しているのである。なるほど、冒頭の数ページで読者の心に好奇心を生むというのは、この業界で生き残るために必要な技術なのだろう。私もそうして、まんまと取り込まれた口だ。
また、読書なら寝る寸前に個人的生産性のない一日を終える罪悪感を感じ無いという効果も、疲れた僕の心には丁度良かったのだろう。
こういう疲れを放っておくと、 いつか何も感じなくなってしまうのだろう。
だからこそ、この思いを少しでも少なくできる活動は継続していきたいと思ったのである。
今日の問い
皆様は、自身の罪悪感とどのように向かいあっているのだろうか。「解決しなくてはならない」という説法をするつもりはない。「タイミング」は一人で対応できる課題ではない可能性が高いからだ。
しかし「エウレカ」を感じる必要があるなら、
少なくとも罪悪感を感じ続けることに意味はあるのではないだろうか。
今まで苦手だったことにそのヒントがあるかもしれない。
苦手だと感じた3年前から、変化したことはたくさんあるハズなのだ。
Sany.