「やりたいこと」は「自分」の次に探しても見つからないモノで、やりたいという気持ちだけじゃ、始めるまでの困難に負けることがよくあります。
そんな時は、やりたいことの上位互換としての「本当にやりたいこと」を考えてみるのですが、それもまた、なかなか見つからないものです。
私は答えが見つからないときはサウナ大明神に聞いてみることにしています、というお話です。
サウナ大明神とは熱いサウナの中でチャクラを意識しながら自分と語り合う、なんとも胡散臭い行いです。
※ちなみにサウナ大明神とはなかなか言い得て妙で、サウナで熱くなると聞こえる心臓の鼓動が、仏教の真言のテンポに聞こえてくるきがします(個人の感想です)。
ふと、気が付いたこととして「やりたいこと」が見つからない人にとって、宗教は一つの道になるということ。心の拠り所とでもいうのでしょうか、信条があると考えが整理しやすくなることに気が付きました。
自分のなかで信条としていることが無いか考えているうちに、「原因結果論」「懐疑主義の終着点」に似ているのではないかという考察にたどり着きました。
つまり、何処かに理由や信条を求めてみても、原因となる事象が起こっていない状況が変わらない限り、結果である「湧き出るもの」も無い。
一方で、すべてに意味がないと否定することもまた、何も生み出せない。
信じるとすれば、考えているという私の存在そのものを肯定すること(我思う故に我あり)、という視点に立って、まずは人類としてすべきことを為すことを信条とするのはどうかと。
具体的には、人は子孫を残すことにフルコミットするべきだと言う原点を守ること。
これを信条とし、これまでの動機にプラスして自己の行動に意味づけを加えていくことで、信条という鎖で意欲を引き出す身に着けることが、行動力を喚起させるのではないかということです。
例えば
「伊豆でダイビングをしたい」だけだと、移動・費用・時間・天候・人間関係・失敗など色んな否定的条件が困難として立ち向かってくる。
「伊豆でダイビングをし、強い・経験を貯めた自分を作る」と考えれば、「子供にダイビングを教えられる、ダイビングをしようと思ったときに立ち寄れる場所を作る」という考えになれば、どうでしょうか?
より、強い行動意欲になり始められる気がしないでしょうか?
つまり、今回のサウナ大明神からの教えは2つで
- 信条となる物を考えよう
- 分からなければ人類視点から振返ってみよう
ことのように感じました。
Sany.